猫とグルメ、初めての台湾<前編>/First time in Taiwan:Cats and fine foods<Part 1>
(English text is to be followed soon)
週末をはさんで3泊4日の台湾旅行へ
多くの友人に勧められて以前から行ってみたかった台湾に、12月半ばに週末を挟んで3泊4日の旅に出た。飛行機はシンガポール航空系列のLCCスクート、台北北部のホテルも入って54,000円という格安パック。運行時間は3時間半程度というすぐお隣りの海外旅行に行ってきた。

機体はボーイングの仕様、LCCにも関わらずターミナルは成田空港の第1ターミナル、これは便利でいい。キャビンアテンダントは黄色と黒のユニフォームに身を包みScootiesの愛称で呼ばれていた。

LCCだけに座席はこんな感じ。さすがに長時間は辛いが、3時間程度なら贅沢は言えない。

座席からコントロールできるのはこの3つだけ(読書灯、スタッフの呼び出し・解除)。もちろん機内食、ドリンクのサービスは一切なく、飲食は実費で購入(ちなみに表示されている価格はシンガポールドル)。ビデオサービスもないので、長時間のフライトにはきついかな、と感じる。

着陸が近づくと機内の照明がどういうわけだかレインボーカラーに。台北までは3時間40分程度(帰りは3時間強に縮まる)、入国審査はかなりの人数が並んだが進行が速く、特に日本人のパスポートだと何の質問もなく規定通りに顔写真と両手の人差し指の指紋をとって1分ほどで終了。その手順も目の前のタブレットに漫画風のイラストで示されるので、言葉に自信のない日本人旅行者にも実に優しい構造。
今回のツアーはHIS提供の“スケルトンタイプ”、すなわち往復の飛行機と宿泊をパックにしながら現地ではほぼフリーというタイプのツアー。到着後に台北市内に向かう時だけチャーターしたバスと現地の添乗員が付いてくる。現地旅行会社から派遣された添乗員は4年間日本に留学していた人間で20代後半のように見える。1時間程度のバス乗車時間のなかで言葉巧みにオプショナルツアーに誘い、“手数料が要らない両替所”というところに連れていく。と言っても、着いた“両替所”はビルの地下にある中国茶葉の店に付随したところで、恐らくこの店から旅行代理店はコミッションをもらっているのだろう。“手数料無料”と言いながら、レートがけっこう悪い。まあ、とても安いツアーを提供してもらっているので、このくらいは付き合ってあげよう。もちろんここでは何も買わずに、市内でゆっくり相場を確かめてから買うことにする。
着いたホテルは台北駅から4駅、中山小学校という地下鉄駅から歩いて5分のところにあるビジネスホテル。隣りがセブンイレブン、歩いて10分以内に商店街や夜市までコンパクトに揃っており実に便利なロケーション。通りを挟んで向かい側には立派な(道教の?)寺院もある。これが1泊2人で朝食もついて8,000円程度なので、やはりHISの価格提供力は強い!ただ建物が古く、トイレットペーパーを便器に流せないことには閉口。まあ、台湾に来たらこれはしょうがない。


夜市の夕食、ホテルの近場と、士林(シーリン)夜市
19:00頃にホテルに着いたため、夕食は歩いて5分程度の夜市へ。

比較的小ぶりの夜市だけど、人気の店には行列ができている。水餃子で人気の屋台を見つけ、ここで夕食。ニンニクの効いた水餃子に牛肉麵をつけて800円程度。台湾の物価はかなり日本に近づいているが、それでも夜市は安くていい。ただ、ほとんどの屋台ではビールを始め、飲料の提供はしていないので自前で調達すること。また言葉はどうかと言うと、中高年以上の方々にはほぼ英語は通じない。日本ではよく台湾の大学生と英語で会話しているので、少しはできるかと思っていたが、ほぼ日本の状況と変わりなし。ただ片言の日本語や、特に数字を日本語で覚えている方は観光地で非常に多かった。
次は滞在最後の夜に訪ねた台北最大の士林(シーリン)の夜市。日本のTV番組でも、台湾を紹介する番組では必ず登場するところ。

とにかく人が多いところだけに、必ずスリがいるぞ、と添乗員さんからも警告されていたところ。17:00からの開店で、かなり早いうちに行ったがすでに人でいっぱい。

左が今回の夜市体験で一番美味かった胡椒餅の屋台、右は広大なスケールの輪投げ。

夜市の地下には広大なフードコートも。こういうところを見ると、この夜市の観光地としての年輪と成功の歴史を感じる。

屋台の中でも目立つ行列を見せていたところが上の写真。これはエリンギのタレ焼きの屋台で、これまで見たことのないもの。こちらも相方と行列に並んで買ってみた。タレを塗った極太のエリンギを炭火で焼き、一口大に切って胡椒ベースの調味料をかけて食す。確かに食感がヘルシーな肉のようで、ふりかけた調味料にベストマッチ。これに気づいた店主は偉い。ちょっとしたアイデアで行列店を演出することが可能になるのは、ビジネスの上で大事な教訓と言えそうだ。
郊外へ1日散歩、猫の村と、江の島を思わせる一大観光地「九份」
台北から郊外への日帰り散歩では、猫の村と呼ばれる猴硐(ホウトン)、「千と千尋の神隠し」のモデルになったと言われる建物の夜景で有名な九份(チウフェン)、ランタン気球を飛ばせることで有名な十份(シーフェン)を巡る予定だったものの、台鉄(台湾の国鉄)のホームに行ったら十份まで向かう平渓線が土砂崩れのために2か月先まで不通に!ちょっとショッキングなアクシデントだったけど、とりあえず一番の目的だった猴硐(ホウトン)までは電車が通っているので、まずはここを目指すことにして、十份(シーフェン)は諦めることに。

台北から1時間弱のホウトンの駅は改札口を出たその瞬間から猫だらけ!村を挙げて猫を可愛がっていることがわかる。

ホウトンはもともと炭鉱の村、日本統治時代から石炭の採掘で潤っていたが、戦後に廃坑になってすっかり寂れてしまったが、もともと多かった猫を活用して観光資源とする動きが高まり、猫と村人の共生する姿がSNSを通じて広まり、2013年には大手報道機関CNNにより「猫が観光名所を凌駕する5つの場所(英語:5 places where cats outshine tourist attractions)」の一つに選ばれた。鉄道駅から猫を象った跨線橋を通って山沿いに広がる村に入ると、もうそこら中が猫だらけ!まったく人間を恐れる素振りもなく、マイペースで暮らしている。

この子は村の入り口に陣取っていたちょっとむくれた感じの猫。



村の中には「むやみな猫の餌やり禁止」との注意書きも見かけたが、実際には売店で日本製のチュールなども売っており、猫用フードであれば黙認のようだ。


街中にあふれる猫は確かにそれだけで観光資源だ。猫好きには一日中いても飽きないところ。ただその一方で、日本各地の猫で有名な土地で起こっている「観光客による不適切な餌やりによる健康被害」や「子猫の遺棄増加」などの問題も起こっているのではないか。炭鉱が廃れてから住民の自発的な努力で「猫の村」として世界的なスポットとなったところだけに、これらの諸問題に対して模範となるソリューションをホウトンが産みだせるようであれば、この猫の村も持続可能な猫好きのパラダイスでいられると感じた。



線路を挟んで村の反対側には、今は廃墟となった坑道施設が保存されている。街の建物もそうなのだが、高温多湿の亜熱帯である台湾では構造物の劣化が非常に速いように思える。この炭鉱も閉山は1990年だというのに、まるで100年前の廃坑を見ているようだ。廃墟マニアにはたまらないスポットかも知れない。
ホウトンから1駅前の瑞芳(ルイファン)まで電車で戻り、駅の観光案内所で九份(チウフェン)への交通を確認する。ところがここが本当に観光案内所だろうかと思うほど英語が通じない!カウンターの女性はとてもにこやかに親切に対応してくれるのだが、半分くらいしか話が伝わらない、結局最後はタブレットの通訳機能を使って情報を確認した。結果としてチウフェンまではバスも出ているけど、タクシーを使っても220元(1,000円強)なので駅前からタクシーを拾うことに。ほんの15分ほどでチウフェンの山の中腹に到着。

九份(チウフェン)の最大の呼び物は上の写真(観光素材をコピー)のような建物の夜景なので、夕方からすごい人波になり、スリも多数集まるそうだ。今回はスケジュールの関係で昼から訪問。
着いてすぐに気づいた!ここはまさに台湾の江の島だ、とにかくものすごい数のツーリストの群れが、狭い路地に並んだ商店に吸い込まれていく。スリも暗躍するはずで、ホテルを出たところから貴重品は持たずにできるだけ身軽にしてきた。

チウフェンの街は山の高台に展開しており、街外れの駐車場からは海が見える。もともとは金鉱で栄えた街で、かつての繁栄を匂わせる山間に広がるノスタルジックな街並みと、「千と千尋の神隠し」を彷彿とさせる雰囲気で有名になった静かな観光地のはずだったが、今や首都台北から1時間程度の格好のエクスカージョンとして、日本の鎌倉のようなオーバーツーリズムの様相を呈している。

最初に貼り付けた観光写真の建物がここ。昼間だとやはり感動が少ないなあ。

街中には原宿のように観光客向けのお店が並んでいるが、確かに人がもう少し少なければ静かで居心地のいい観光地になるかもしれない。しかし観光客が減少すれば、現在のお店は採算が取れなくなるし、これが人気観光地の難しい問題。

チウフェンのすぐ隣りには、金瓜石と呼ばれる金鉱山がある。清朝末期の1893年に金鉱脈が見つかり、一時は台湾全土から砂金堀りが集まりゴールドラッシュの様相を呈したところ。ただ発見直後の1895年の下関条約により台湾は日本に割譲され、日本統治時代が始まる。日本政府は即座に民間による金採掘を禁止し、日本の会社による本格的な金鉱開発が始まる(1933年に日本鉱業株式会社に経営権譲渡)。もっとも資源の枯渇などから太平洋戦争中の1943年頃には採掘中止、終戦後は国民党に接収され、銅鉱山として再開発が行われるが、最終的には1987年に廃坑に。現在では鉱山街を再現した広大な金鉱博物館として公開されている。

